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親鸞(五木寛之):あくにんと悪人

歎異抄「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」。小説の時代背景は、平家全盛から滅亡へ、源氏による武家の台頭の時代です。都では、したいがあちこちに打ち捨てられているのが日常です。貴族社会の人々は、南都北嶺(奈良興福寺、京都比叡山)等に多額を寄進し、国家安泰を祈願します。また、自分たちの健康や平安、来世の祈願、説法を着飾った高僧に依頼します。一方、ちまたには「あくにん」と呼ばれる人々が、うごめき、その日その日を生きています。この「あく」は、料理の際に出る「あく」、金属溶解に出る「こうさい」のようなものを意味するものです。この人々は、絢爛豪華な寺院、仏閣を見上げるにつれ、決定的に社会的身分の違うことを自覚させられたに違いありません。ここに、比叡山の異才「法然上人」が現れ、エリートコースを離れて、あくの人々に念仏というものを教えたのです。「なむあみだぶつ」。法然上人の説法は、「あくにん」に人気をはくしますが、既存の権力に気を使い、「悪人」という文字を割り当てたのでは、と思いました。貴族社会(富裕層)とあくにん(貧困層)では、あくにん集団に「法主」という核ができた場合に、いつか階級闘争になります。国家的な危険思想の印象を回避するための工夫として「悪人」と、それに対立する「善人」が必要になったのです。後に、法然(高齢)の弟子となった親鸞(若い)がこれを受け継ぎ、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」となりますが、文字だけ読むと、社会階級の対立は消えています。「平等」という当たり前のことが危険思想であった時代に、これは念仏普及の秘策であったのだと、小説を読んでいて、思い当たりました。

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